こちらに来て2週間が経つのにブログの更新が遅れてごめんなさい。
最初の週は竹内先生と行動をともにしました。竹内先生の3年目とは思えない落ち着いた仕事ぶりと地域の人から信頼を得る誠実さに感心するばかりです。
病院とは違う外来ベースの診療、勝手の違う救急診療などなど戸惑うこともありますが、出会う医療スタッフ、地域の方々は皆さん心優しく、あまりお手伝いできていない私にも感謝の気持ちを伝えてくれます。 ありがたいことです。
でも、普通に話している患者さんも医療スタッフも肉親や大切な人を亡くしている現実があります。
写真は、水曜日に行っている雄勝地区の出張診療の様子とその地区を震災前まで支えていた雄勝病院です。津波で屋上まで浸水しました。ここでの医療支援も9月いっぱいで終了する予定です。
ページビューの合計
2011年9月12日月曜日
2011年8月28日日曜日
PIPC
緑膿菌に効くあれ。
…ではなくPsychiatry In Primary Careだそうな。
プライマリーケア医がいかにしてうつ病や不安障害を診るか、てなセミナーに参加してまいりました。
とめどなくしゃべるファシリテーターの先生(三遊亭小遊三を面長にした感じ)のもと、みっちり7時間。
背景問診、MAPSO問診など具体的なツールから、患者さんへの接し方まで。
女性にはLove、男性にはRispect。
復習して少しでも還元できればと思います。
終了後は遠藤先生を仙台に迎えに。
わたくしの石巻生活もついに最終週へ。
ラストスパート頑張ります。
2011年8月27日土曜日
支援とエゴと青春と。

全部で救急車9台。
脳梗塞、交通外傷×3、胆管炎、指切断、緑内障発作、てんかん疑い、騎馬戦から落ちた子供。
そうか、今日は運動会か。
我らが拠点・涌谷の高校でも文化祭をやっている。
それどころじゃない現実がつい5か月前にあったけど、今は精一杯運動会や文化祭をやっている。
青春っていいなぁ。。。などと高校卒業して10年経って思ってみたり。
10年後の8月、まさか石巻にいるとは思ってもいなかったあの頃の僕でした。
…話がよくわからん方向に行きそうでした。すいません。
日赤の救急は震災前に比べればまだまだ患者数は多い状態。
でもお盆が過ぎてちょっと落ち着いてきたとのこと。
確かに今週の木曜準夜のWalk inも今日の救急車も先週までと比べて少ない印象です。
雄勝の支援は9月まで。日赤の救急も落ち着いてきている。
このままわれわれの仕事も減っていくことが予想されます。
それが自然な形だし、早くわれわれがいらない日常になる方がいい。
でも訪問すれば医療が必要な人はまだまだいます。
それは震災のせいだけでなく、元からの医療過疎地域だからかもしれない。
そこに部外者のわれわれが乗り込んでいろいろやっちゃうのは問題があるようです。
しかし医療過疎の現実も今回の震災で浮き彫りになった事実。
この震災をきっかけに、この地域の医療が新たな方向へ進めばいいなと思う。
そんな思いも部外者のエゴかもしれないけれど。
2011年8月26日金曜日
ひよこ
入釜谷健康相談。
前日に石巻入りしていただいた原村診療所 安藤先生にもご同行いただいた。
入釜谷地区は約20世帯の小さな集落。
震災後からJIM-NET医療班が深く関わってきた地域。
私が石巻入りした8月上旬にはそれぞれかかりつけも決まり、月1回の健康相談のみとなっていた。
でもそれも今回で終了。

JIM-NETが医療として入釜谷に入ることはもうない。
でもこのつながりは今後もきっと続いていく。
同じ集落で亡くなった方もいる。
畑や鶏舎も失った。
でも笑顔で日々生きている。
ひよこ。
入釜谷復興の象徴。
2011年8月24日水曜日
アクセス

桃生郡雄勝町。
石巻市街地から離れた沿岸部に位置し、漁業が主な産業。
2005年に平成の大合併で石巻市と合併。
沿岸部であることもあり今回の津波で甚大な被害を受けた地域。
沿岸部は壊滅ですがリアス式海岸のため海のすぐ隣は山。
山側の家は無傷だったりします。
津波被害で無医地区となっており、現在も日赤主体で日替わりで巡回診療が行われています。
われわれは水曜日担当。
午前中は仮設住宅のある地区へ巡回診療。
午後はもともと特養だった建物に引っ越した支所での仮設救護所で診療。
午前中は2時間で15人程度。
午後はほぼ0です。
なぜか。
支所まで行く足がないわけです。
巡回バスが走っていますが多くはない。
苦労して支所まで行くぐらいなら週1回の巡回診療を待てばいい。
そんなわけで巡回診療では数日前にけがをした、どこかが痛い、なんて人もちらほら。
9月には常勤の医師がいる診療所を開設するため雄勝地区の日赤支援も終了予定。
はたしてそれでいいのだろうか。
2011年8月23日火曜日
臨時往診
火曜日の朝は拠点を提供いただいてきる涌谷国保病院の青沼院長とミーティング。
…と思いきや本日は東京に出張でお休み。
早く言ってよ。
午前中は特に予定なし。
尾崎(おのさき)地区で瓦礫撤去ボランティアのリーダーから「足が両方象みたいに腫れてる人がいるから見てほしい」との依頼が。
浮腫?
象皮症??
…フィラリア???
などとありえない想像をしながら現場へ。
見てみると両側足関節水腫はあるものの浮腫や感染徴候はなし。
自覚痛もないし他動時痛もなし。
OA?
痛みもないし心配ないかな?
とりあえず経過観察でよさそう。
それまずいやろ!?てなご意見があれば竹内までお願いします。
夜はわれらが奥先生をお迎えに。
あれ?こないだまで石巻にいなかったけ?
行政から依頼を受けて明日保健指導員向け講演をされるため再来。
頑張ってください。
…と思いきや本日は東京に出張でお休み。
早く言ってよ。
午前中は特に予定なし。
尾崎(おのさき)地区で瓦礫撤去ボランティアのリーダーから「足が両方象みたいに腫れてる人がいるから見てほしい」との依頼が。
浮腫?
象皮症??
…フィラリア???
などとありえない想像をしながら現場へ。
見てみると両側足関節水腫はあるものの浮腫や感染徴候はなし。
自覚痛もないし他動時痛もなし。
OA?
痛みもないし心配ないかな?
とりあえず経過観察でよさそう。
それまずいやろ!?てなご意見があれば竹内までお願いします。
夜はわれらが奥先生をお迎えに。
あれ?こないだまで石巻にいなかったけ?
行政から依頼を受けて明日保健指導員向け講演をされるため再来。
頑張ってください。
諏訪教育会会報
諏訪教育会会報 第182号に寄稿しました☆
その内容を下記に書いておきます。
1500文字っていう分量は難しいですね。
~~~~~~~~~~~~~~~
「・・・・。」その気持ちを表現する言葉が見つからない。
平成23年7月13日から一ヶ月間、宮城県石巻市に医療支援活動に行ってきた。当初から毎日が驚きの連続だった。釜谷、尾崎、北上、門脇、雄勝地区、女川町。場所により異なる風景だが、いずれもおびただしい数の犠牲者や被災家屋があった。視野に広がる廃墟の光景、風の匂い、虫や鳥の鳴き声、そこに漂う形容し難い雰囲気は、テレビや写真、ボランティア体験者の報告会では決して理解できなかった。
そこには色んな生と死のドラマがあった。
7割の児童が犠牲になった大川小学校に急いで迎えに行き、間一髪孫を救い出した祖母。保育園にいた園児は助かったが、迎えに行った母は途中で流された。自分の体に命綱をくくりつけ、津波に流されてきた人たちを必死で拾いあげた。「助けて!」と言いながら波間の瓦礫に消えた人の声が忘れられない。
巡回診療で毎週訪れていた入釜谷地区の住民の方々は、診療終了後にいつも手料理と共に震災当時の話をしてくれた。その時の生々しい話や温かい心遣いに自然と涙が溢れた。
「子供が亡くなった家と生き残った家、狭い集落の中で会話ができなくなっている。その事に触れることも、”タブー扱い”されることも両方とっても辛い事。私のようなちょっと外の人間が行って『お線香1本上げさせてくださいね』と声をかける事でその思いを聞いてあげられる事がある。」役所の保健師さんが別の集落に同行した時に話をしてくれた。
「医師」という看板のない訪問。二人の孫を失った初老の男性。元気そうに話をされているが昼間から酒を飲み、気を紛らわせているように見えた。近づきすぎれば「無神経」、遠すぎれば「冷やかし」になる。コミュニケーションを取るのが怖いと初めて思った。
「決して対岸の火事にしない」そう思って活動してきた。石巻では当院名誉院長の鎌田實医師が代表を務める「日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)」が活動を続けていた。6月から同僚や病院幹部の先生と共に「JIM-NET/諏訪中央病院 石巻医療復興支援プロジェクト」を立ち上げ、若手医師達が4~6週単位で継続的に石巻入りすることになった。
実際の活動としては、避難所のダニ退治や瓦礫撤去作業、無医村地区の仮設診療、訪問診療、石巻赤十字病院の救急当番、地元クリニックでの診療、住民への講演など。「あらゆる場面で期待された仕事を全うする」という諏訪中央病院で教えられた力を発揮する場となっている。
本当に多くの方々に支えられての支援活動だ。病院幹部の先生や診療所の先生が応援に駆けつけてくれた。同僚が活動資金を募金してくれた。原小学校3年2組の生徒さんたちが書いてくれた手紙に被災地住民の方は泣いて喜んでくれた。茅野のあるクリニックではスタッフが往診に自家用車を使い、代わりに往診用の車を寄付してくださった。
普段の診療の中で医師にとって一番の先生は「生老病死」の悩みを持った患者さんだ。被災地では気が遠くなるほど沢山の悩みが、現在進行形で続いている。
「この大災害から学ばなければならない」よく耳にする言葉だ。しかしそれは「次の災害に備えるため」だけでなく「人間としてどうやって生きていくか」を学ぶことが重要だと思う。
被災地の復興はまだ本当に始まったばかりだ。傷付いてまだ立ち上がれない人も沢山いる。しかしこの街は必ず甦る。その日に向けて私たちの活動がほんの少しでも役に立てば、こんな幸せな事はない。
【詳しくはコチラ】
医師の石巻活動ブログ → http://suwaishi.blogspot.com/
JIM-NETブログ → http://blog.livedoor.jp/jim_net/lite/
その内容を下記に書いておきます。
1500文字っていう分量は難しいですね。
~~~~~~~~~~~~~~~
「・・・・。」その気持ちを表現する言葉が見つからない。
平成23年7月13日から一ヶ月間、宮城県石巻市に医療支援活動に行ってきた。当初から毎日が驚きの連続だった。釜谷、尾崎、北上、門脇、雄勝地区、女川町。場所により異なる風景だが、いずれもおびただしい数の犠牲者や被災家屋があった。視野に広がる廃墟の光景、風の匂い、虫や鳥の鳴き声、そこに漂う形容し難い雰囲気は、テレビや写真、ボランティア体験者の報告会では決して理解できなかった。
そこには色んな生と死のドラマがあった。
7割の児童が犠牲になった大川小学校に急いで迎えに行き、間一髪孫を救い出した祖母。保育園にいた園児は助かったが、迎えに行った母は途中で流された。自分の体に命綱をくくりつけ、津波に流されてきた人たちを必死で拾いあげた。「助けて!」と言いながら波間の瓦礫に消えた人の声が忘れられない。
巡回診療で毎週訪れていた入釜谷地区の住民の方々は、診療終了後にいつも手料理と共に震災当時の話をしてくれた。その時の生々しい話や温かい心遣いに自然と涙が溢れた。

「子供が亡くなった家と生き残った家、狭い集落の中で会話ができなくなっている。その事に触れることも、”タブー扱い”されることも両方とっても辛い事。私のようなちょっと外の人間が行って『お線香1本上げさせてくださいね』と声をかける事でその思いを聞いてあげられる事がある。」役所の保健師さんが別の集落に同行した時に話をしてくれた。
「医師」という看板のない訪問。二人の孫を失った初老の男性。元気そうに話をされているが昼間から酒を飲み、気を紛らわせているように見えた。近づきすぎれば「無神経」、遠すぎれば「冷やかし」になる。コミュニケーションを取るのが怖いと初めて思った。
「決して対岸の火事にしない」そう思って活動してきた。石巻では当院名誉院長の鎌田實医師が代表を務める「日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)」が活動を続けていた。6月から同僚や病院幹部の先生と共に「JIM-NET/諏訪中央病院 石巻医療復興支援プロジェクト」を立ち上げ、若手医師達が4~6週単位で継続的に石巻入りすることになった。
実際の活動としては、避難所のダニ退治や瓦礫撤去作業、無医村地区の仮設診療、訪問診療、石巻赤十字病院の救急当番、地元クリニックでの診療、住民への講演など。「あらゆる場面で期待された仕事を全うする」という諏訪中央病院で教えられた力を発揮する場となっている。
本当に多くの方々に支えられての支援活動だ。病院幹部の先生や診療所の先生が応援に駆けつけてくれた。同僚が活動資金を募金してくれた。原小学校3年2組の生徒さんたちが書いてくれた手紙に被災地住民の方は泣いて喜んでくれた。茅野のあるクリニックではスタッフが往診に自家用車を使い、代わりに往診用の車を寄付してくださった。

普段の診療の中で医師にとって一番の先生は「生老病死」の悩みを持った患者さんだ。被災地では気が遠くなるほど沢山の悩みが、現在進行形で続いている。
「この大災害から学ばなければならない」よく耳にする言葉だ。しかしそれは「次の災害に備えるため」だけでなく「人間としてどうやって生きていくか」を学ぶことが重要だと思う。
被災地の復興はまだ本当に始まったばかりだ。傷付いてまだ立ち上がれない人も沢山いる。しかしこの街は必ず甦る。その日に向けて私たちの活動がほんの少しでも役に立てば、こんな幸せな事はない。
【詳しくはコチラ】
医師の石巻活動ブログ → http://suwaishi.blogspot.com/
JIM-NETブログ → http://blog.livedoor.jp/jim_net/lite/
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