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2011年7月30日土曜日

7/30の報告~

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7/30(土) 曇り時々雨
訪問1件
皮膚科疾患光楽先生コンサルト1件
石巻日赤救急当直
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いよいよ日赤の夜勤に行ってきます。
今日は夜勤にむけて比較的のんびりしながら
事務作業を進めていました。

今日コーディネーター川添さんが東松島市(隣町)の診療所の先生から
「面会希望」の電話を受けて、来週火曜日に会いに行くことになりました。
新たな仕事依頼の予感!?

日赤の救急支援について

とりあえず一回おためしに・・ってことで行ってきました。

石巻の救急体制はほぼ日赤オンリーでまかなっています。
隣の東松島市にロイヤル病院というところがありますが隣町です。
元々あった石巻市夜間急患センターと石巻市立病院(一般206床)がなくなった影響が大です。

日経メディカルオンライン記事↓
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/report/t145/201107/520630.html

実際特にウォークインで患者数が多いです。
それに伴って待ち時間も長くなっています。
おそらくここが前述の医療機関がカバーしていたところなんでしょう。

【供給側】は石巻日赤の医師・看護師+他赤十字からやってきた医師・看護師で
5分5分くらいなんかな?はっきりとはわかりませんでした。
印象としては若手が多く(石巻日赤は研修医10人/学年)で

他の日赤からも地域医療研修みたいな形で研修医が派遣
救援という形で後期研修医レベルの医師が入っています。
ただいずれも1~2週程度の救援なので慣れた頃に終了ってことになるので
「今は短期はお断りしている(救急部長の石橋先生)」とのことでした。

【診療スペース】としては比較的広く、同一フロアに救急病棟もありました。
日中、準夜帯に関しては救急車受け入れ(2次3次救急)とウォークイン(1次)は全然別の場所で
供給側も全く別にチームを組んでやっています。
深夜帯は救急で全部見るようです。

1)救急・・日中・準夜は救急スタッフ+研修医+支援医師数人 で潤沢に人がいる
夜間は救急スタッフ(3年目以上)+研修医などの2人体制で十分とはいえない状況
2)ウォークイン・・日中・準夜は外科、内科、小児科、整形(やったか?)から一人+支援医師などで潤沢
夜間はクローズ。救急で全部見る。

【支援医師として】
支援医師はこれまで深夜のお手伝いには入っていないようなので僕が第1号です。
救急スタッフといっても後期研修医の先生だったりとかで若手医師の場合もあり、
僕らでも十分役に立つ場面がありそうでした。

【実際の予定】
・木曜日の準夜(17時~20時)
・日曜日の深夜(0時~8時半) ※土曜日の夜遅くに出勤ということです
でまず入ることになっています。

【対応する場面】
足りないところを補うという僕らの役目からして、ウォークインでも救急でもやる予定です。
深夜はどの道両方やることになります。
1次~3次までやってくるので場合によって諏訪中央より重症患者もやってくるでしょう。

本日早速深夜勤務になったので実際どんな患者さんがやってきたのかも交えてまた報告します!!

2011年7月27日水曜日

第1週目のふりかえり

<<今週の客観的データ>>
◎北上
3500人中, 300人死亡, 100人未だ行方不明
※北上支所佐藤主任保健師さんより

◎北上中学校(H23.6.21)
吉浜、相川地区が壊滅的被害
生徒数97名, 行方不明1名, 全壊30名, 半壊17名
片親死亡4名(3家庭), 学区外から通学19名
避難所在住4名, 仮設在住12名
教職員 全壊4名 家族死亡1名
※北上中学校平成23年度学校要覧」

◎石巻赤十字病院 ※以下石巻圏合同救護チームからの提言(H23.6.27より)
石巻日赤急患患者2倍。原因は石巻市立病院、夜間急患センターの機能停止と考えられている。

◎避難所(H23.6.27)
避難所46か所, 避難者3399名, 旧石巻市通水率94.5%, 下水道の対応は不十分

◎定点救護所の患者数は5月→6月で1/3程度

◎北上地区 橋浦診療所 7月より医師診療再開(脳卒中後)

◎仮設住宅 8000戸必要見込み 4000戸完成

<<今週の具体的活動>>
【訪問・情報収集】
◎行政支所の保健師さん訪問(河北・北上・雄勝)
◎医師・医師会訪問(石巻医師会長、桃生郡医師会長・事務局長、河北:成田医院・木村医院、北上:橋浦診療所)
◎学校訪問(北上中学、飯野川中学)
◎避難所住民、在宅住民ヒアリング(石巻北高校避難所、入釜谷住人、石巻市街住人)
◎その他訪問(門脇地区 西光寺, 涌谷町 光明院)
【在宅支援】
◎訪問診察 1件(大腸Ca 骨meta 脊椎圧迫Fx後 ADL低下+便秘)
【診療】
◎入釜谷診療(医師3.看護師3.住職1)
【各種ミーティング】
◎日赤 合同救護班ミーティング
◎河北支所 保健師との合同ミーティング
◎石巻専修大 復興支援協議会ミーティング
◎Skype "Suwa家"ミーティング

<<印象に残ったこと>>
①石巻北高校避難所の元門脇地区住民が「自分達はいじめられている」と話していた。
②入釜谷の住人達がとにかく明るい
③河北地区の曹洞宗光巌寺の地蔵祭
④本人の仲間や上級医の先生とのミーティング

<<その時に感じたこと>>
①石巻は市町村合併を最近まで繰り返して大きくなった街。行政単位では石巻市という単位になっているが今回の災害においては元々のつながりの深い旧行政区単位で物事が扱われていることが多い。
また、同じ石巻市でも住民の性質はしばしば全く異なる(特に海側と山側など)。それにより通り一辺倒の対応ではうまくいかない場面や住民同士のトラブルや距離感にもつながっていそうだ。
②震災4カ月を経て「前向いていくしかないっちゃ」という機運があちらこちらで見られる。その気持ちが行動につながる場面ではなんらかの小さなきっかけ(友達からこんなこと頼まれてやったとか、この歌を聞いたとか、○○さんと会ったとか)が重要であるように思う。
③河北地区の中ではそんなに被害の大きくはない地域。寺の境内に焼鳥屋やかき氷屋が出て老若男女の集まれる時間。この小さなお祭は、住民にとって毎年行われる大切な行事。これを通して地元住民との距離が縮まり、つながりを深める結果になったような気がする。
④1か月という限られた時間の中で焦り、はやりのあった自分の話を聞いてくれ腰を落ち着けて活動することの大切さを気づかせてくれた。ほんといい仲間、いい先輩。

<<次のステップ>>
地域住民の復興につきあっていく。「継続の為に○○しなきゃ」とか「医者として○○したい」などというのは横においてとにかく少しでも地元目線。そのための"医者らしくない活動"は喜んでやる。感じたこと思ったことを随時記録していく。

2011年7月26日火曜日

奥の細道。みちのく医師の巻

(※写真は旧北上川にかかる虹)

奥です!!

石巻にやってきて早10日近く経ちました。

とにかく今
「諏訪中央病院の人はほんまにエエ人たちやな~」
これを強く強く感じています。

たしかに今思えば最初1週間ちょっと焦ってた。
「医者としての仕事とってこなきゃ」
「自分がいる間にやらなきゃ」
っていう感情が強かった。


でもね、それは支援する側の傲慢です。エゴです。
僕らはあくまで被災者の復興に寄り添ってつきあいながら
その過程で出てきたニーズを拾って応えていくことが必要なんです。

震災後4カ月を経過し、壊滅し絶望的だった被災地の人たちはゆっくりと歩み始めている。
そんな中では急性期支援医療のニーズは減っていきます。
見方を変えれば仕事が減っていきます。

でももちろん現地の人は困っているんです。明らかに必要としているニーズはあるんです。
でもそれに応えるかどうかは細心の注意を払わないといけない。
「ここで我々の力で復興のモデルを!!」なんて言うのはマズいです。

力あればある程、知識あればある程 何かやりたくなる。何かしないではいられなくなる。
いつしか「必要とされることをする」のではなくて「したいことをする」ようになる。
こういう人たちは必ず調和を乱します。
それをやるなら仕事をやめてその地域に住民票を移し、永住するつもりでやれ。そうなります。

なんでこんなことを書いているかというと自分への戒めです。
最初に書いたように「何かしないといけない」と思っていた。
そうじゃないと活動を継続できないと思っていた。

ところが仲間と話をして、幹部の先生達と話していたら、自分の考えが浅はかだったと知りました。
みんなホント理解してくれてる。感動しました。肩の力が抜けました。
こっちで色んな医者に会うけど、ウチの病院ほど心ある人たちが揃っているところ絶対ないと思う。

石巻の復興はまだまだ助走段階です。スタートラインすらきれていない感があります。
しかし確実にその萌芽がある。それが育っていくまで一緒に寄り添う。
尊敬すべき仲間たちと一緒にそれができるかもしれない。なんかうれしくなります。

2011年7月15日金曜日

南相馬支援

5/6 当直明けに南相馬支援に出発。 
一行は運転手と同僚のMと看護師のMとJCF(日本チェルノブイリ基金)のKさんだ。 
新しくできた北関東自動車道を通りいく。 
福島に入るとパトカーが何台も連なっていたり、道が歪んででこぼこしていたりする。 
二本松市の放射能はいまだ1μSV以上。異常に高値である。 
子供たちがマスクもせずに登下校。これは国辱というか、殺人行為に等しい。 
こういった風景を眺めながら南相馬市立総合病院に5時半頃到着。 
福島第一原発から23kmのここは230床の病院で、震災前は14人の医師がいたが、今は4人の医師となってしまった。 
原発が爆発した後、用意する間もなく、自衛隊機で患者は「もののように」運ばれていったということだ。看護師にとってはそれがショックだったという。当然だろう。患者の荷物がごみのようにごみ袋に入れられて残されている。 
正面玄関はいまだ放射線が高線量のため封鎖中。小さな救急出口だけが通用口として開かれている。通用口の外は0.5μSVくらいで、郡山や福島市より低い。 
そう、ここが「30k圏内」だから、学校や病院を封鎖するのでなく、本来は郡山や福島市の学校や病院を封鎖するべきなのだ。 
院長と副院長の先生と対策本部で打ち合わせ。 
対策本部と言っても2Fのエレベーターホールである。ここは病院内で一番線量が低いということで、対策本部となった。あちこちに3月下旬の業務の跡があり、緊迫感を伝えてくる。 
疲れをとるひまもなく、業務に入る。 
と言っても今日は同僚のMが当直をしてくれるというので、ちょっと救急をみてから早速寝る。


朝起きて朝ごはん。看護師長など看護師さんたちが病院の食堂でご飯を作ってくれる。メルトダウンが起きたらみんなで立てこもろうと決心したと、副院長。ここの食堂には支援物質が詰まっている。 
メルトダウンしたら、黒い雨が降る。いったんそれが雨で吹き飛ばされたらみんなで逃げるという作戦だったという。 
しかし、もはやメルトダウンどころかチェルノブイリより大量の放射線物質が出ている。おそらく、燃料が流れ出ているか、露出しているのだろう。 
午前中は避難所めぐり。市内に避難所は四か所ある。 
そのうちの二か所に行った。一か所は保健所の敷地にある。外で子供がバスケットをしようとしている。半分がマスク、半分がマスクもせずに遊んでいる。避難所は奇妙な日常。たくさんの親子がものもいわず、テレビをみつめている。 
医療巡回が回っているらしく、今日はだれも医療を必要としない。数人の血圧を測り、健康相談に乗り、次の診療所へ。 
次の診療所は学校であった。たくさんの人がいる。 
カルテに目を通す。多くが高血圧、便秘、水虫などである。避難所の長が定められておらず、健康問題も情報の統一がなされていない。 
倉庫を借りて診療開始。腰痛、巻き爪、湿疹、高血圧、せきなどありふれた相談。病院へは週に一回バスが出ているらしいが、歩くのが大変だからいかないのだという。湿疹は風呂に入れば治りそうだが、週に二回の風呂へは歩くのが大変で行かないのだが、腰が200度くらい曲がった老女がいう。 
隣では歯科診療が行われている。 
ラーメン屋の支援が入ったらしく、みんなラーメンをすすっている。 
やはりここも非日常の日常化が進んでいる。 
「避難所は1カ月が限界」と副院長が言う。避難所にいれば三食出てきて、仲間もできて、医者も来て何不自由ない。だからみんな避難所を出て、仮設住宅には移りたがらない。 
最近はだんだん規律がなくなってきている。ボランティアが酒を飲みにつれて行き、よっぱらって喧嘩になったりする。一部の金持ちはそこから旅行に行ったりしている。貧富の差があり、避難地域とそれ以外の地域とのいがみ合いもある。今後は窃盗がおこるだろう、と。 
帰りは海岸線を通って帰る。 
道に船が乗りあがっている。家が流されてぼろぼろになっている。自衛隊が撤去作業を続ける。震災の爪痕がなまなましい。 
昼からは救急外来。 
演歌歌手を見に行ったおじいちゃんが転んで頭を打ってくる。薬も既往歴もわからない。 
普段のレベルもわからない。奥さんが来たのでなんとか返す。その最中にもう一台のホットラインが鳴る。「今も診療中なのに自力で動けないひとなんか・・・。入院はさせられないし」と看護師が叫び声をあげている。こちらをちらっと見たので、「どんどん連れてきて下さい」という。看護師はほんとは診たくはないのだろう。しかし、数少ない医師となってしまった。入院できなくても、一度診るほうが、入院施設の負担軽減になる。次の方は避難から帰ってきたばかりで、家からふっと歩きだし行き倒れになっていた。娘さんがあとから駆けつける。娘さんは「これからどうしたらいいのか」とつぶやくばかりで、会話にならない。いろいろ話したが、理解はあまりしていないよう。ソーシャルワーカーと今後面談するということで何とかおかえり。 
夜には脳梗塞疑いの患者。MRIが微妙だったため送りたがったが、この時間ではどこもとってくれない、と。結局治療を開始し、急患室に朝まで寝かせておくことになった。患者さんは堅いストレッチャーの上ですやすやと眠ることとなった。 
とにかく医療が崩壊するというのはこういうことなのだな、と感じた。 
医療情報の散逸、医療の質の低下、福祉、保健の崩壊。 
緊急医療のモデルはとうにすぎ、これからは福祉、保健の再興だ。 
病院に来ないで、閉じこもっていたり、精神的に参っていたり、劣悪な環境にいる方々がごまんといるだろう。 
全戸訪問、福祉の再開が急務だ。 
もちろん地域医療の再開も必要。しかし、放射能のせいで多くの専門医が逃げてしまった。数少ない専門医が専門を守るため、総合医が必要だろう。 
泌尿器科疾患をみたら、看護師に苦言を言われた。すぐに泌尿器科医に送ってほしい、と。しかし、そんな使い方をしたら一人しかいない隣病院の泌尿器科は疲弊してしまう。送る線の一歩手前ということを知っていて、送らなかったのだ。薬がなくなってからで十分間に合う。 
自分がやっている「総合医」はアイデンティティが持ちにくいが、このようなときこそ真価がはっきされる。 
専門医しかみていないとそういう価値観になってしまう。



福島の土壌からはチェルノブイリを超える放射性物質が超えてしまった。 
山下俊一というばかな学者が、知ったかぶりをしたために、福島の人々は逃げるタイミングを失い、これから何十万人という新規のがん患者が生まれるだろう。 
もちろん、東京でも同じことだ。 
なにより津波と放射能とのダブルで苦しめられている人々がいることがつらい。 

南相馬の写真 
https://picasaweb.google.com/dolce.vita1014/1110507?authkey=Gv1sRgCKHB1Oapps3tOA#

5月の活動記録

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To do list

□ 学会への研修として認定されることの働き
□ 保険診療ゲッツ! N医院
□ プレスリリース
□ ナース ゲッツ!