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2011年7月15日金曜日

南相馬支援

5/6 当直明けに南相馬支援に出発。 
一行は運転手と同僚のMと看護師のMとJCF(日本チェルノブイリ基金)のKさんだ。 
新しくできた北関東自動車道を通りいく。 
福島に入るとパトカーが何台も連なっていたり、道が歪んででこぼこしていたりする。 
二本松市の放射能はいまだ1μSV以上。異常に高値である。 
子供たちがマスクもせずに登下校。これは国辱というか、殺人行為に等しい。 
こういった風景を眺めながら南相馬市立総合病院に5時半頃到着。 
福島第一原発から23kmのここは230床の病院で、震災前は14人の医師がいたが、今は4人の医師となってしまった。 
原発が爆発した後、用意する間もなく、自衛隊機で患者は「もののように」運ばれていったということだ。看護師にとってはそれがショックだったという。当然だろう。患者の荷物がごみのようにごみ袋に入れられて残されている。 
正面玄関はいまだ放射線が高線量のため封鎖中。小さな救急出口だけが通用口として開かれている。通用口の外は0.5μSVくらいで、郡山や福島市より低い。 
そう、ここが「30k圏内」だから、学校や病院を封鎖するのでなく、本来は郡山や福島市の学校や病院を封鎖するべきなのだ。 
院長と副院長の先生と対策本部で打ち合わせ。 
対策本部と言っても2Fのエレベーターホールである。ここは病院内で一番線量が低いということで、対策本部となった。あちこちに3月下旬の業務の跡があり、緊迫感を伝えてくる。 
疲れをとるひまもなく、業務に入る。 
と言っても今日は同僚のMが当直をしてくれるというので、ちょっと救急をみてから早速寝る。


朝起きて朝ごはん。看護師長など看護師さんたちが病院の食堂でご飯を作ってくれる。メルトダウンが起きたらみんなで立てこもろうと決心したと、副院長。ここの食堂には支援物質が詰まっている。 
メルトダウンしたら、黒い雨が降る。いったんそれが雨で吹き飛ばされたらみんなで逃げるという作戦だったという。 
しかし、もはやメルトダウンどころかチェルノブイリより大量の放射線物質が出ている。おそらく、燃料が流れ出ているか、露出しているのだろう。 
午前中は避難所めぐり。市内に避難所は四か所ある。 
そのうちの二か所に行った。一か所は保健所の敷地にある。外で子供がバスケットをしようとしている。半分がマスク、半分がマスクもせずに遊んでいる。避難所は奇妙な日常。たくさんの親子がものもいわず、テレビをみつめている。 
医療巡回が回っているらしく、今日はだれも医療を必要としない。数人の血圧を測り、健康相談に乗り、次の診療所へ。 
次の診療所は学校であった。たくさんの人がいる。 
カルテに目を通す。多くが高血圧、便秘、水虫などである。避難所の長が定められておらず、健康問題も情報の統一がなされていない。 
倉庫を借りて診療開始。腰痛、巻き爪、湿疹、高血圧、せきなどありふれた相談。病院へは週に一回バスが出ているらしいが、歩くのが大変だからいかないのだという。湿疹は風呂に入れば治りそうだが、週に二回の風呂へは歩くのが大変で行かないのだが、腰が200度くらい曲がった老女がいう。 
隣では歯科診療が行われている。 
ラーメン屋の支援が入ったらしく、みんなラーメンをすすっている。 
やはりここも非日常の日常化が進んでいる。 
「避難所は1カ月が限界」と副院長が言う。避難所にいれば三食出てきて、仲間もできて、医者も来て何不自由ない。だからみんな避難所を出て、仮設住宅には移りたがらない。 
最近はだんだん規律がなくなってきている。ボランティアが酒を飲みにつれて行き、よっぱらって喧嘩になったりする。一部の金持ちはそこから旅行に行ったりしている。貧富の差があり、避難地域とそれ以外の地域とのいがみ合いもある。今後は窃盗がおこるだろう、と。 
帰りは海岸線を通って帰る。 
道に船が乗りあがっている。家が流されてぼろぼろになっている。自衛隊が撤去作業を続ける。震災の爪痕がなまなましい。 
昼からは救急外来。 
演歌歌手を見に行ったおじいちゃんが転んで頭を打ってくる。薬も既往歴もわからない。 
普段のレベルもわからない。奥さんが来たのでなんとか返す。その最中にもう一台のホットラインが鳴る。「今も診療中なのに自力で動けないひとなんか・・・。入院はさせられないし」と看護師が叫び声をあげている。こちらをちらっと見たので、「どんどん連れてきて下さい」という。看護師はほんとは診たくはないのだろう。しかし、数少ない医師となってしまった。入院できなくても、一度診るほうが、入院施設の負担軽減になる。次の方は避難から帰ってきたばかりで、家からふっと歩きだし行き倒れになっていた。娘さんがあとから駆けつける。娘さんは「これからどうしたらいいのか」とつぶやくばかりで、会話にならない。いろいろ話したが、理解はあまりしていないよう。ソーシャルワーカーと今後面談するということで何とかおかえり。 
夜には脳梗塞疑いの患者。MRIが微妙だったため送りたがったが、この時間ではどこもとってくれない、と。結局治療を開始し、急患室に朝まで寝かせておくことになった。患者さんは堅いストレッチャーの上ですやすやと眠ることとなった。 
とにかく医療が崩壊するというのはこういうことなのだな、と感じた。 
医療情報の散逸、医療の質の低下、福祉、保健の崩壊。 
緊急医療のモデルはとうにすぎ、これからは福祉、保健の再興だ。 
病院に来ないで、閉じこもっていたり、精神的に参っていたり、劣悪な環境にいる方々がごまんといるだろう。 
全戸訪問、福祉の再開が急務だ。 
もちろん地域医療の再開も必要。しかし、放射能のせいで多くの専門医が逃げてしまった。数少ない専門医が専門を守るため、総合医が必要だろう。 
泌尿器科疾患をみたら、看護師に苦言を言われた。すぐに泌尿器科医に送ってほしい、と。しかし、そんな使い方をしたら一人しかいない隣病院の泌尿器科は疲弊してしまう。送る線の一歩手前ということを知っていて、送らなかったのだ。薬がなくなってからで十分間に合う。 
自分がやっている「総合医」はアイデンティティが持ちにくいが、このようなときこそ真価がはっきされる。 
専門医しかみていないとそういう価値観になってしまう。



福島の土壌からはチェルノブイリを超える放射性物質が超えてしまった。 
山下俊一というばかな学者が、知ったかぶりをしたために、福島の人々は逃げるタイミングを失い、これから何十万人という新規のがん患者が生まれるだろう。 
もちろん、東京でも同じことだ。 
なにより津波と放射能とのダブルで苦しめられている人々がいることがつらい。 

南相馬の写真 
https://picasaweb.google.com/dolce.vita1014/1110507?authkey=Gv1sRgCKHB1Oapps3tOA#

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